2011.04.09 Saturday
Hauschka “Salon des Amateurs”、そしてSomewhere
サクラにGRちゃんを向けたところで、写真は暗いです。性格が暗黒なため、どうしても。
きのう。
かきかけで、居眠ってしまい、そのまま、ぼんやり起きてはいたものの、まとまらず。さぼってしまいました。
1日かかないだけで、かくことたくさん、というか、あとでかく、といったままたまってることたくさん。
まずは。これから。月曜に買って、ちゃんとかくといったきりな。
Hauschka “Salon des Amateurs”
Hauschkaじたいについても、はなしておいたほうがよいですか? ふだんから叫びつづけているんで、もうよいですか?
では、あいだをとって、簡単に。
ドイチェ、デュッセドルフのVolker Bertelmann。
プリペアードピアノを演奏するんです。
プリペアードピアノについてもはなしておいたほうがよいですか? ふだんから叫びつづけているんで、もうよいですか?
では、あいだをとって簡単に。
ピアノの弦に、いろいろと細工をして、ふだんのピアノとはちがった音を出すんです。
Hauschkaは、ビニイルやら、瓶のふた、ピンポン玉やら、金属片やらと、いっけん無造作にビニイルテープでべりべりその場ではっつけてゆくんです。はっつけたところの鍵をひくと、パーカッションのような音がなるのです。
これはおととし、わたし撮影なHauschkaピアノ。
いまのわたしの耳があるのはHauschkaのおかげ。もう3年まえのColleenとの来日、そのとき、HauschkaとColleenばかりをきいてたら、それまでわたしの耳が拾えなかった音たちを拾えるようになったんです。
いままで、なんどかこういう耳の変化ってあったんですけど、このときがいっとうな変化。
はじめはミニマルなピアノからはじまり、プリペアードピアノによる実験的な、でも、肌触り耳触りはとてもポップなのを2作、そしてチェロやらヴァ イオリンが絡むモダンクラシカルなのを2作つづけてで、そのきょねんのんがピアノがあまりまえにでていないかんじなものになっていて、どうなるんだろう、 この先、とおもったら、今作はプリペアードピアノを全面に押し出したものになっていました。
で、ダンスミュージックなんです、これ。
といっても、電子音ぎゅんぎゅんたした、とか、跳ねるようなジャズのとか、際立ってキャッチーな音の連なりが反復するとかでもなく。
微細なものの集まりです。
弦に金属的なものをはっつけたパーカッションのような音によるリズムに、細工をしていない弦による、ミニマルな音のつらなり、そこに、トロンボーンやチェロ、ヴァイオリン、そしてほんのすこしの電子音が、ところどころに重ねられる音のつくりで。
mumのドラムのひとが参加してるんだけれど、そのドラムが先頭にたってリズムをひっぱるというかんじではなく、ひろがりをあたえるくらい。ドラ ムが参加してるといわれなければわからないくらいな曲もあるくらいな、ピアノによるリズムが。からだがうごいてしまいます。踊るというよりもうごく。
いままでのんでも、Trafficのように、おなじくらいなテンポのがあったけれど、モダンクラシカルなアルバム2作を通過したいま、音の重なりと配置は、より深く、多様になって、でもつつましくって。
前作のクラシカルな、というのんからがらりと方向転換というわけではなく、様々な楽器に与えていていたのんを、ピアノに詰め込んでやってるというかんじ。ピアノの可能性をどこまでも、な。
リズムな音のうえに切ない音が乗り、ゆかいでありながら、涙がとまらなくなるという、たくさんな感情をひきだしてくれる音たち。
Two AMでのダイナミックなリズムと、こまやかにはねまわる高音のメロディ。
Pingでの淡いところと、低音でどっしりとしたリズムなど、たくさんな要素がひとつの曲のなかにつまっていて。
そして、それぞれの音がとても繊細で、でもその手作りな音の変化はどこまでもやさしく。
繊細でやさしい音の集積が、耳から、皮膚から、からだのなか脳のなかに忍び込んできて、内側でやさしく、はじけだし、その音たちはとても微細でこまやかだから、からだの隅々までいきわたって、全身が動く。そんなかんじです。
ピアノなの、いろいろときいて、好きなひとたくさんだけれど、やっぱりHauschkaはとくべつ、です、よ。
http://fat-cat.co.uk/fatcat/release.php?id=351
今月ゆく予定だったほかのピアノなのが延期になって、今週、これをきけて、とても救われています。もう、なんてうれしいタイミング。
秋の来日がたのしみでならない、わ。
せっかくなんで、映像たくさん。
役者でもよいくらいな。そう、本人、すさまじくよいひとなんです、ステキなんです、よ。
きょうは。
休みなため、映画へ。新宿へ。
ソフィア・コッポラ監督『Somewhere』
これについては、きっとみんなみるから、なにかしらかかなくたってとおもうんだけれど。どんなはなしか、というのんもすっとばします。
では、綱渡りな感想を。
よいです。やっぱり。
おっきなできごと、ではなく日常の断片をつなぎあわせて、それでもたせる、ひとつひとつの場面のきれいさ、テンポのよさはやっぱりステキな。そんなん、わたしがかかなくっても、なんだけれど。
テーマもわかりやすく直球で。そして平坦ななか、せまいところでの円の動き、往復の動きが執拗にくりかえされるけれど、軽やかで、いやじゃないところがステキ。
なにより、正直さ、なんだとおもいます。
セレブリティな生活の倦怠とかいわれても、そんなん共感できないし、贅沢なくらしができるんだからよいんじゃない、イヤミかい? とならないんです。それは、ソフィア・コッポラ本人がこんな暮らし方をしてきたからで、その正直さのうえになりたってるというのんが、ここちよいんだとお もいます。
あと、ひとがらね。セシルBのひとが主役なんだけれど、哀愁がでてるんです。でも、くたびれた、というものではなく。わたしには、いつまでたって も、セシルBにしかみえなくって、いつ暴れだすんだろうとひやひやしながらも、汚らしくないさわやかな哀愁がただよっていて、よかったんです。
顔面真っ白の塗り固められてるところ、長回しが、せつなくおかしく、笑いながらも。
エル・ファニングが異常にうつくしい。たくさんなきれいなひと、でてくるんだけれど、そのなか、異常にうつくしい。ソフィア・コッポラが撮ってるからなのか、この子がかわいいのんか、両方なのか、わからないけれど。
はじめにでるうしろからの光たっぷりなところでの顔面が。あとイタリアでの朝食のときの表情とか。
あと、いちいち服装がかわゆい。
結婚は無理だろうけれど、娘が欲しい。といっても、わたしの遺伝子からエル・ファニングはつくられないだろうけれど。
出張ポールダンスのふたご、動きがあってるようであっていなくってあっていて、かわいかった。
音はいままでよりもひかえめなつかい方、といってもかなりまえにでてるけれど。PhoenixにStrokesに、Sebastien Tellierに。Dustin O'Halloranは今回なし。
日常を描いたしぜんな、とかいう文句がつくものはたくさんあるけれど、Somewhereは別格な心地がよさがはじめから終わりまで続きます、よ。
http://
ながいのん、ふたつぶんかいたから、もうこんな時間。
冬のあいだ、朝は眠いうえになかなかからだがうごかなくって、いつもぎりぎりに家をでて、本気で自転車をこいでました。
その結果、冬のあとに得たものは、ふとももまわりのすさまじい筋肉。びちびちなパンツ(ズボン)がよりびちびちで、いやらしいことになっています、ので、春はすこしはやめに眠り、はやめに起きてゆったり家をでて、筋肉をおとします、ね。